2013年7月6日土曜日

日本語にしか宿らない?「言霊」

いきなりですが僕は表面的なイメージとは裏腹に実はイギリスを筆頭に西洋は男性が支えている父性社会、日本は実は女性が支えている母性社会だと考えております。

日本人の男性は意識的に、或は無意識的に女性より偉そうに振る舞っていますが、実体はお釈迦様に対して「俺は世界の端から端まで行けるぞ!」といきがって觔斗雲に乗って飛んでみせたら実はそれはお釈迦様の手のひらの端から端までだった、という孫悟空みたいなもので、そのお釈迦様こそが女性なのです。

ま、要するにこんなイメーヂですね
先日とある女性の友人が「日本の歴史や文化を反影した言葉であり、今となってはそう深く意味を考える必要も無いのだろう」としながらも「主人、旦那、亭主」という言葉は使う度にどうも気になってしまう、と仰っていました。

確かに上記した理由だけではないですが「主人、旦那、亭主」という言葉は咀嚼すればするほど余りにも滑稽かつ歪な味で僕も生活の中ではガチにはとても使えないです

英語社会においてもかつては女性を "Mrs. John Smith" みたいにして呼び、文字通り男性の所有物的な扱いをしていました。しかしこのような表現はアチラにおいては時代に、というより意識的に淘汰されて逝きました......

言葉そのものの持つ意味をきちんと見つめ、自らの強靭な自由意志で言語デザインに手を加えるという事に関しては日本人は西洋なんかに比べて非常に保守的ですね。日本人にとって日本語というのはある意味「聖域」なのでしょうか。

この「聖域」を神道的に解釈をするならば倭言葉には「言霊」というものが存在し、八百万神が存在する自然と同じく人間が意図的に手を加えてたら「バチがあたる」という感覚......

神霊が鎮まる神域かむやしろ
一方、最近「外国語が多過ぎて精神的苦痛を与えられた」としてNHKを提訴した男性のニュースがありましたが、「片親」を「シングルマザー」とか、「乞食」を「ホームレス」とか、「憎悪発言」を「ヘイトスピーチ」みたいに言いかえる感覚で「夫、妻」を「ハズバンド、ワイフ」と英語に置き換えたりするソリューション(笑)も問題の本質を他人事のような手触りにして曖昧にしてしまうだけ、という気がしてなりません。

喋っている人間のIQに下駄を履かせ、エセインテリゲンチャっぽく演出する為の道具としてだけの外来語だったら、せいぜい成金が持っている似合ってもいないブランド物程度のレベルの話なので可愛くもあり大した害はないと思うのですが、言葉というものは我々の思考に直結しており、時には意識まで鎮静させてしまう毒性が潜んでいるから気をつけるべきなのです。

このような愚行(と、敢えて言わせて頂きます。僕的にはこの手の行為は単なる政治的手段を越えた愛する日本語のレイプに他ならないのです)をし続ける事で核心の部分は寧ろ全く触れられずに済む為、本質的な改善や進歩はさらに遠のくように思うのです。

問題を上手に挿げ替えたら問題が問題でなくなっちゃうかも!?みたいな......

そういう意味ではくだんの男性もあながち単なるクレーマーではないんじゃないかと思いますね〜

もしかしたらやたらと臭い場所には英語を使いたがるこの日本人の習性も「英語には日本語のような言霊が存在しないからカジュアルに利用出来る」という外来語に対する無責任な「気軽さ」がどこかにあるからかもしれません。

それは裏返してみると「『言霊』は倭言葉にしか宿っていない」という感覚が意識下のどこかにあるという事です。

***

日本語というのは日本にしか適用されない言葉が幾つか存在する、という意味でも特殊な言語です。

例えば英語で天皇にあたる "emperor"という言葉は日本の「天皇」以外は「皇帝」と訳され、"prime minister"は日本の「総理大臣」以外は「首相」と訳されていますよね。

対してイギリスの"queen"という言葉は英国女王以外にも使われますし、"prime minister"という言葉も然り。アメリカの"president"も当然同じです。

「天皇」や「総理大臣」は日本にしかいないのです!

こう書くと「当たり前だろ」とか「そりゃそうだろ」と即座に反応される方も多いでしょう。

その脳の反射神経の感覚こそが英語で言う"exceptionalism" - 例外主義なのです。

それが非日本人の目にはどれだけ不思議かつ滑稽に映っているかを肌で感じられないのは我々日本人が自分達、そして自分達の使っている日本語そのものが当然「例外」であると心のどこかで信じ込んでしまっているのです。

「総理大臣」は世界広しといえども日本にしか生息しておりません

そもそも英語には「言霊」にあたる単語はありません。英語に限らず西洋の言葉に対する感覚はもっと即物的というか、あくまでも詩的/美的/音楽的なもの、或はよりインパクトの強い言葉のコンビネーションや利用法というベクトルに特化したものです。

それはあくまでも神は一つ、そして地上ではなく天上にあり、下界の言葉は単なるコミュニケーションのツール道具、或は美しい詩や文章を描く為に必要な絵の具のようなものと捉えられている故でしょう。

西洋では詩人らによって言葉が「詩」という域まで昇華し、生命が吹き込まれて初めてそこに霊性が降臨するという風に考えられていますが、日本においては文脈すら形成される以前の単語、下手したらその音節にすら「言霊」という霊性が宿ると信じられている訳です。

それが故に西洋の詩は(少なくとも19世紀位迄は)装飾的な方向に進化し、日本の詩は俳句のようなミニマリズムの方向に進化したのかもしれません。

言葉の錬金術師ランボオ

先日仕事の取材で本田のASIMO最新型を開発した技術者の方とお話ししましたが、その方も「ロボットが進化して機能がどんどん充実してくると八百万神を信仰する日本人であるせいかどうしても『何か霊が宿りはじめているのでは』と感じ始めてしまう」と語っておりました。

日本特有の保守性というのは言葉に限らず霊が宿る万物への畏怖というか不可侵性みたいな感覚の顕在化したものではないかと感じるのです。

そう言った意味では例えば現行の日本国憲法なんかも既に神さんが宿ってしまい神性を帯びはじめてしまっているから「改正なんてとんでもない!」と政治家も有権者もどこかで思い込んでしまっているからなのかもしれませんね〜♪








2013年4月5日金曜日

Sleepless in Toronto / トロントの寝付けない夜

This entry is written in English and Japanese
今回のブログは二カ国語でお送りします


I was in Toronto, Canada last week attending and speaking at Canadian Music Week. I always find a hard time adjusting to the time difference and, this time being no exception, had quite a few sleepless nights...

先日Canadian Music Weekというイベントのパネル・ディスカッションに参加すべくカナダはトロントに行ってまいりましたが、時差に弱い体質故、今回も案の定寝付けない夜が続きました...

So, one night I thought; "Since my brain refuses to slow down, I might as well write down the crazy thoughts that are keeping it active against, or perhaps being emancipated from, its owner's will."

ある晩ふと「脳が全然休もうとしないのなら、その中で持ち主の意志に逆らって、あるいは解き放たれて駆け巡っている思考を書き留めてみようか」と思ったのです。

The followings are "the thoughts" or "psychography", if you like...

以下がその「思考」又は「自動書記文」です...

(原文は英語なので一部英語的言い回しがありますがご容赦下さい)


"Brain Children" - Ken Nishikawa, 1997

Some people ask me “why are you so interested in linguistics and cultural comparison?” Here is the reason;

よく人から「何故そこまで言語学や文化比較に興味があるのですか?」と訊かれます。以下がその理由です;

My ultimate goal in life is to isolate my soul from all influences I’ve had since my birth.

自分の人生における究極の目的は生まれてこのかた蓄えて来たあらゆる影響から自分の魂そのものを摘出する事です。

To know who I really am, I must understand the elements of additives acquired through up-bringing, education, culture and socializing, remove them and see myself for what I truly am.

自分自身を知る為にこれまで家庭環境、教育、文化、社交等を通じて得られた添加物を理解し、取り除いて本来の自分の姿を見る事が必要なのです。

In order to do so, one must become a bicultural or multi-cultural person. A mono-cultural person cannot draw a line between what is being added by cultural initialization/conditioning and what is a pure consciousness one was born with for s/he is unable to grasp the part - her/his own culture (when I say “culture”, I include language, general temperaments, religion, -isms, politics, the lot) – in its entirety and purity.

その為には二つ、もしくはそれ以上の文化を自分の中に持ちあわせる人間になる事が必要です。一つの文化しか持ち合わせない人間は文化的初期化/条件化によって形成された部分と生まれた際に持ち合わせた純粋な意識の部分の間に線を引く事が出来ません。何故なら自分自身の文化(ここで云う“文化”には言語、国民性、宗教、思想、政治等全て含まれます)を総括的かつ純粋に理解する事が不可能だからです。

If your country and her culture is the only country and culture you know, you will never be able to put them into perspective. You need to travel abroad, live with different people and speak other language(s) in order to truly understand your country and culture. If you are unable to see your own culture in objective, three-dimensional manner, you will never be able to separate it from your pure consciousness or soul, if you like.

自分の国と文化しか知らない人はそれをパースの中に置いて捉える事が出来ません。自分自身の国と文化を本当に理解する為には外国に行き、違った人種の人達と共に生活し、異なる言語を喋る事が非常に重要なのです。自分の文化を客観的かつ三次元的に捉えられなければ、自分の純粋な意識、或は魂からその部分を分割する事は永遠に不可能です。

Some says they are inseparable. I disagree.

文化と魂は不可分だ、という人もいます。僕はそうは思いません。

It is a scientific approach to zen nirvana.

これは禅で云う涅槃に至る為の科学的アプローチ。

Asking questions such as “why do you need to know such a thing?” or “You find yourself, then what?” is like asking a quantum physicist “what is the point of discovering the origin of the universe?”

「何故そんな事を知りたいの?」とか「自分自身を知ってどうするの?」等と問うのは量子力学者に「宇宙の誕生を知ってどうするの?」と問いかけるようなものです。

Answer is not important. Question is.

重要なのは答ではなく問答そのものなのです。

The ultimate truth is not the eternal answer. It is the eternal question.

究極の真実とは永遠の答ではなく永遠の問答。

“Reality” is about the answer. “Truth” is about the question.

「現実」とは答であり「真実」とは問答。

Riddle is the fountain of life-force.

問答は生命力の泉なり。

Finally, I’d like to add that this is one of many paths, not the only one, that lead one to the palace of wisdom.

最後にこれは英知の館へと通じる数多い道の一つでしかないという事を付け加えておきます。






2013年3月7日木曜日

俺は死にたくないよぉ〜!

唐突ですが、最近僕が惚れてる男二人といえば松田優作会田誠なんです(笑)

(会田先生は3月31日迄六本木ヒルズの森ミュージアムでデッカい展覧会やってまっせ♪周りの人には「ムリ〜」って人もいるのですが、個人的には資産と展示スペースがあったら全作品買いたいくらい惚れてます!)

「ど、どっからその訳解らないコンビネーションが出てくるんだよっ!(汗)」

......そんな声が聞こえて来そうですが、そのような狼狽を顧みず今回は好きなだけ.....

「男が男を愛する時」- 偏愛について吠えさせて頂きます〜♪

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僕の中での松田優作の原風景は小学校の時「太陽にほえろ!」の再放送で観た「なんじゃこりぁ〜〜〜っ!」でお馴染みのジーパン刑事....

あと優作との個人的な関わりで言いますと、今から10年以上前の話になりますが「探偵物語 Remix~これにて一件落着~」というコンピレーションがリリースされた際に渋谷のWOMBで行われたパーティーにてDJをした位でした。何故僕が指名されたのかも今となっては永遠の謎ですが、この時はまだ「探偵物語」をよく知らなくて、工藤ちゃんのコスプレをした人を見ても「なんかルパンみたいな人が歩いてる」なんて思った程度....

そんな僕ですが、ここ数週間で自分の中の「優作」因子が超臨界状態に達してしまったのは遅ればせながら最近Huluで観始めたくだんの「探偵物語」....

「探偵物語」それは時代を先取りした者達への奔放なメッセージである....

1960年代、日本映画のヒーローといえば高倉健に代表される任侠ものの「ヤクザ」。しかし70年代に入ると「反社会的勢力を美化するのはいかがなものか」という"いかにも"な流れでテレビでは逆に体制讃歌的な刑事ドラマが氾濫。実際視聴率もとれていたので結果:

「警察権力は庶民の味方」

という誤った認識が一般社会に定着して今に至る、って感じだと思うのです。

松田優作にしても前述の「太陽にほえろ!」や「大都会 PART II」なんかで刑事役を演じ、そのステレオタイプの定着に図らずして片棒を担いでしまった感もなきにしもあらずですが、僕に言わせればそんな負の遺産(?)を返済してあまりある程、70年代テレビ番組の偏ったヒーロー像を本来のあるべき姿に戻した(?)のが工藤探偵事務所の私立探偵、工藤俊作!

「あのねぇ〜」

「探偵物語」の本放送は1979年から80年。現代より良くも悪くも製作姿勢がユルかったのでしょうか、同時期のドラマの例に漏れず回によって脚本や演出の完成度がまちまちではあります。正直、全27話の中で個人的に「素晴らしい!」と手放しで褒められる回は恐らく片手で数えても指が余る程度でございます......

しかし!そんな整合性に欠けたショボい脚本の回でさえも優作のアドリブの効いたノリのいい演技、手足の長い人には珍しい軽快な身のこなし、そして何よりもピッカピカのカリスマのお陰で何となく観れてしまうのが怖いです(笑)。

個人的に特にお勧めなのは水谷豊原田美枝子がゲスト出演している第5話「夜汽車で来たあいつ」。

若き日の松田優作と水谷豊の二人が写っているカット、特に酒場をさんざん梯子してどこかのクラブのステージで優作がギターを引きながら水谷豊が唱うシーンなんかはホント、眩いばかりの絵図です。

白いギターにシビレますね〜

この二人本当に上手、というかカンの鋭い役者さんなので台詞のテンポがよくて自然。会話のシーンなんてまるで終わってしまうのが勿体ないような良いミュージシャンのジャム・セッションを聴いているような感じで、いつまでも聞いていたい魅力が満載ですねぇ。この回における二人のパフォーマンスの素晴らしさたるや..........

........個人的にはダニエル・クレイグ主演の最新版ではなく1967年制作のオールスター・キャストの方の「007カジノロワイヤル」(この映画自体は「世紀の駄作」という評価と「微妙なお洒落映画」という評価に分かれておりますが...)でピーター・セラーズオーソン・ウェルズという英米天才俳優二人が演じたバカラのシーンに匹敵するものだと思います♪

"Bond, James Bond..."

またこの回は優作演じる工藤ちゃんが田舎から出て来るカタブツの水谷豊をトルコ風呂(今で言うソープランド)に連れて行って、馴染みのボイン(死語)のトルコ嬢(死語)に「たっぷりサービスしてあげて!」なんて言う描写があるのですが、そういった演出にも生々しい現実を慈愛の目で見る実に味わい深いものがあるのです。

ちょっとネタバレになりますが、水谷豊の妹を演じる原田美枝子(この人も本当に美しく、素晴らしいです!)が調査を進めていく内に実は売春をしてお金を稼いでいる事が発覚するのですが、工藤ちゃんはそれを全然咎めません。むしろ兄の豊の方に「お前の妹は田舎でモンシロチョウを追っかけていた妹とはもう違うんだ!」

「俺は職業差別はしない!」

別の回では女装してクラブで働くお友だちを探偵料一切取らずに助け、この人達を虐めて酷い事をする人達に鉄拳制裁を加えたり...

或は仲の良い情報屋がポン引きだったり...

要するに社会の一見奇麗な上澄のような部分に棲む人達が後指をさすような人々の味方、というかそういう人達こそをむしろ彼は彼なりに愛しているのでしょう。そして自由をこよなく愛するが故、警察権力をはじめ権力のようなものは基本的にバカにしているんですね〜。これぞ本当のヒーローの姿でしょう!

権力にたてつかないヒーローなんて絶対嘘!

そんな高貴な魂をルパン三世のような派手なスーツで包み、バイクがノーヘルOKだった古き良きプリ・バブル期東京をベスパで颯爽と走る姿....

っていうか「探偵さん」モテモテでしたね。ま、そりゃそうでしょう!

男でも濡れますわ(笑)

「探偵物語」の魅力を挙げていくときりがないのですが、もう一点だけ言うと先程のベスパや銀座英國屋仕立てのスーツに始まり、工藤探偵事務所のカッコいい建物火力最大のライター工藤ちゃんハットティオペペ等、アクセサリーやディテールにいちいち拘っているところ。「探偵物語」の撮影現場は実質松田優作が仕切っていたそうですが、CM出演時でさえ、そこの出て来るキャラクターの親の設定まで徹底的に詰めていたという逸話があるだけあってこの辺の拘りも多分に彼に負う所が多いのではないでしょうか........

(あ、これはあくまでも「僕は」なので全然反対して下さって結構なんですが....)映画やテレビドラマ、そして小説においても凝ったストーリーや上手に作られたプロットなんかも良いんですが、何よりも自分が本当に心を動かされるのは「キャラクター」なのです!

そういう意味では松田優作が拘り抜いて造型した「工藤ちゃん」というキャラクターは100点満点で101点です、僕的には。

工藤ちゃんフィギュア(笑)

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そんな名作の誉れ高き「探偵物語」から10年もしないうちにご存知の通り、人間・松田優作は冥土へと旅立たれます。

ガン治療を忍、ハリウッド映画「ブラックレイン」に文字通り命を賭けて出演、故竹中労氏が「俳優として戦死。立派な死に方だと思います」と言わしめた程(かくいう竹中労氏もこの時点で既に末期ガンに冒されておりました)壮絶な最後を遂げました。

死の二日前に見舞いにきた原田芳雄の前で泣きながら点滴を引きちぎった、というエピソードは有名ですが、そこにはジーパン刑事の最後の台詞「俺は死にたくないよぉ〜!」が妙にオーバーラップするんです....

殉職シーンは全て松田優作本人が台本を無視してアドリブで演じたとか...

臨済宗の名僧/怪僧、一休宗純は生き仏として一般大衆から天皇にまで崇められ、88歳で大往生を遂げたのですが、そんな悟りを開いている一休さんでさえ最後は「死にとうない」とこぼしていたとか....

リアル一休さん

自殺願望がある人ですら死は怖い筈。単に明日という日が繰り返される事の恐怖が死への恐怖を上回っているというだけの話だと思うのです。

つまり「死にたくない!」という願いはごく自然な事。

そんな死への恐怖感というものを紐解いてみますと、動物の生存本能が臨終の瞬間そのものを恐れさせているという他に、知的生命体であるが故の副産物でもある自分という「意識(= エゴ)」が宇宙から消滅する事を「想像」してしまう恐怖、そしてその認識から帰結するのが:

「容認し難い存在の虚無」

松田優作も晩年は禅に傾倒、座禅を組み「俳優は悟りに至る迄の過程」だと語っていたそうです。

優作のそれとは関係ないと思いますが、神や天国、或は来世を信じている方々はその辺一応すがれる何かがありますよね。

しかし死への恐怖に駆り立てられて死ぬ直前になって駆け込み需要的に何かにすがりつこうとする事を潔しとしない人間はどうして「死」、もっと正確に言えば「存在の虚無」と向き合えば良いのでしょう?

Le Mythe de Sisyphe

カミュが「シューシュポスの神話」で言っているように、神亡き世界において人間は明日への希望を糧に生きています。しかしその希望の明日というのは同時に我々を一日死へと近づけるものでもあります。

そして人間も含めた地球上のあらゆる生きとし生けるものの臨終というものは人生で最も荘厳な瞬間であると同時に大抵苦しみにのたうち回り惨たらしい苦痛を経て息が絶えるという現実の側面もあるのです。

つまり「生き甲斐」そのものが絶対的矛盾を内包しているのです。

故に人は「神」のような存在に帰依して存在の不条理の苦しみから癒されたい、と願うのかもしれません。

しかし先程も申し上げたようにそのような行為を潔しとしない場合は......

存在意義の「無益さ」「無駄さ」を認め、心の平安とともに受け入れるところから本当の「生きる」事がはじまる。

本来、正義も愛も希望もない砂漠から生まれる「反抗」「自由」「情熱」.......

神も天国もない世界で人間の存在を正当化するのはそんな純度の高いエネルギーに他ならないのではないか、というのが僕の実存主義の解釈なのですが.......


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........松田優作の分身である「探偵物語」の工藤ちゃんにはそんな「反抗」「自由」「情熱」の三拍子が揃っている、と思うのです。

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そんな訳で死に際に「俺は死にたくないよぉ〜!」って思いっきり泣き叫んでしまってもいいじゃないっすか!

それは裏返して言えば自分の人生に対する抑えきれない愛が溢れ出ているという事!

大好きだった人と別れなくてはならない時に流す涙の味とさして変わらないっすよ。

大事なのは今この無意味な空間において純度の高いエネルギーを「もってる」って事。

これさえ持ち続けられれば「立派な人」になれます、っていうか多分悟れるかも♪