2012年11月27日火曜日

音楽のバイオリズム・人生のバイオリズム

「音楽のバイオリズム」っていうのが自分の中にはあるのですが、皆様にも身に覚えとかございますでしょうか?

具体的に説明しますと、まず、とある周期で:

「日本人音楽期」「黒人音楽期」「白人音楽期」

というのがありまして、解りやすく例を挙げますと、日本人音楽期は美空ひばりみたいな演歌を聴きたくて、黒人音楽期はJBとかスライみたいなファンクを聴きたくて、白人音楽期はビートルズみたいなUKロックとかを聴きたい、みたいな感じです。

(解りやす........かったですかねぇ(汗))

更にこれまた、とある周期で:

「電子音楽期」「電気音楽期」

みたいのがあります。電子音楽期にはエイフェックス・ツインみたいなIDM系がハードローテーションで流れ、電気音楽期にはエレクトリック・マイルスとかがヘビロテ、みたいな感じですかね〜

そのまた上に:

「西洋古典音楽風リズム/旋律/和音期」
不協和音/12階調/無調音 (atonal) 期」

がありまして、西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期というのはモーツァルトとかばかり聴いているというよりむしろ東西南北問わず純然たる「黄金比のポップ」な曲に心打ち震える時期、逆に不協和音/12階調/無調音期というのは新しい階律を求めてスケールを脱線するような音楽、或はノイズ、若しくはジョン・ケイジのように音楽鑑賞そのものを再定義するような音に心打ち震える時期なのです。

そして:

「アポロン的音楽期」「ディオニソス的音楽期」

これは先日ブログでも触れましたけど、敢えて言えばアポロン的音楽期の気分はブライアン・ウィルソン、ディオニソス的音楽期はゲンズブールって感じですか.......

こういったムードのフェーズがシンクロしていない為に常に異なったコンビネーションになってその時その時の自分の音の審美感を構成しているのです。

(これはあくまでも僕は、ですが.......)

聴く立場(ラジオDJ)としても創る立場(ミュージシャン)としても、これらのムードの組み合わせが実に大きく影響しているのです。諸々の要素がお互いを影響し合うという意味では西洋占星術のBirth Chart的なものと近いような気もします。

そう考えてみるとこの音楽のバイオリズムなるものは周囲の環境から時代の流れ、はてまたは月の重力とか人間の体や気分をコントロールする色々なものに影響されているのかとも思いますが、とにかく脳内のケミストリーである事は確かだと思うんですよね.....

この「音楽の波長の組み合わせ」なるものを異なった時期に創られたオリジナル曲を幾つか例に挙げて説明してみたいと思います.....

1995年にリリースされた筆者の音楽作品集"Rennaisance Pop"アルバム・アートの一部
 (art direction: Love)

まず今から18年前の1994年にレコーディングされ、95年にリリースした不肖私め最初で最後のソロ・アルバムのラストを飾る、今でも結構気に入っているこの曲なんですが....



この頃はかなりゲンズブールに影響されていまして、タイトルもゲンズブールの名曲「La Javanaise」のもじりですし、曲も完全にシャンソンのパロディです。

当時はFostexのオープンリール8トラック・レコーダーを使っておりました。

FOSTEX R8

ある時たまたまテープの最後が2分ちょっと余っていたのですが、テープは高価でしたし勿体なかったので友人と二人でこの余りの部分で一曲軽く遊びで創ろうって言って恐らく15分位で作曲しました。最後にドラムが変なところで終わっていますが、そこは正にテープが切れたところです(笑)

......と、そんな裏話はど〜でもいいのですが、先程の「音楽期」でいうと当時の自分は:

白人音楽
電気音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声
ディオニソス的音楽

のフェーズだったのではないか、と......

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続いては2004年、元々はファッション・ショー用の音楽として書かれた曲です:



これはIDMとジャズを融合させたような感じになりましたが、意図してこうなった、というよりはたまたまあの4ビートのベースラインが出来た後、自動書記風に出来上がったって感じです。所謂教科書的和音やスケール感はほぼ無視しています。

音楽ソフトはReasonとCubase、そして同じくFostex DMT8という当時既にビンテージだったマルチトラック・デジタル・レコーダーの走りみたいなのを使いました。

FOSTEX DMT-8

この時期に僕の音的審美感を支配していたのは:

黒人音楽
電気音楽(やや電子音楽も入っている過渡期?)
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

ですかね〜。

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次の曲は今年に入ってから創った割と新しい曲です:



元々は南青山にありまするとってもお洒落な大人の隠れ家的バーでプレイするオリジナル曲というイメージで創ったシリーズの一曲です。

ベースになっているのは90年代初頭のダサいイタロ・ハウス、そこにShobaleader 1の頃のSquarepusher、というよりはむしろ初期のBasement Jaxx的な変態宇宙人ヴォイスが乗っかって途中に4小節だけ唐突Stone Roses(笑)みたいな感じです。

これはもうLogic使ってマウスとコンピュータのキーボードだけでほぼ創りました。ヴォーカル以外だと唯一の例外はリズムギター。久々にファンキーなカッティングをプレイしましたが、何しろ最近は楽器を全然いじっていないので腕が鈍っていてレコーディング後のリズムの修正(つまりインチキ)が大変でしたね(笑)Photoshopといい何かと便利な世の中になったものです.....

Apple Logic Pro 9

この曲は恐らくこんな星の巡り合わせだったのではないでしょうか:

黒人音楽
電子音楽
西洋古典音楽風リズム/旋律/和声期
ディオニソス的音楽(ややアポロン的要素あり)

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最後にご紹介するのは現在製作中の青木ヶ原樹海に関するドキュメンタリー用に作曲したものです。これは文字通り先週出来ました:


ドキュメンタリーのメイン・パーソナリティーである友人のアーティスト、クリスチャン・ハグブロムを代々木公園でインタビューをした時のビデオ映像の音の一部を色々いじくっているうちにデスクトップ・ジャム・セッション(笑)みたいな感じになってあれよあれよという間に出来たものです。最初からのイメージ的なものは皆無でした。

これを創った時の脳内セッティングは:

白人音楽
電子音楽
不協和音/12階調/無調音
アポロン的音楽

だったのかなぁ、と......

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それぞれの時期に使用していた機材という一見「音楽のバイオリズム」とは関連性がないフェティッシュ・ネタ(笑)についても触れましたが、これは何故かと言うと僕は定期的に自分の道具を変えるのが好きだ、という点も強調したかったからなのです。

ものを創る方法論として、個人的に馴れ過ぎた道具を使うのは一歩間違えると創作上で行き詰まった際に手癖で解決するという危険な罠に気づかぬ内に陥りそうだと思うからです。

だったらむしろブライアン・イーノの様にOblique Strategiesみたいなのを使って"εὕρηκα!"と叫びたい.......

勿論、そんな罠に陥らずに一つの楽器の蘊奥を極めていき素晴らしい音楽を創造し続ける音楽家も多々いらっしゃるとは思いますし、それはそれで心から素晴らしいと思います。

しかし自分はそういうタイプではないんです。あまり職人的なものとは無縁、といえば聞こえは良いですが要するに不器用である、と。

音楽は勿論の事、自己表現のメディアですら一定の時期を過ぎたら変えたいと思っておりまする。

「石の上にも三年」と云います故、このようなていたらくでは一生報われる事はないのでしょうね(笑)

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「芸術家は孤独だ」とはよく言われていますが、それはたまたま身近の所謂芸術家肌の人が気分屋で孤独を好む傾向があるとかいう程度で、その真意を理解している人って意外と少ないような気がします。

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かの美空ひばりが一度MCで突然、

古賀政男先生に私は家庭を持って幸せになってはいけない、と言われました。皆様はその意味がお判りになりますか?」

とお客さんに問いかけました。

暫く間をおいてから、悲しそうに微笑んで。

「それはお判りにならないですよね、勿論.......」

と言ってから唱いはじめたのです........

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「安定」とはかくなる魂にとって不治の病のようなものなのかもしれません。





2012年11月6日火曜日

垂直にやってくる西洋の神、水平にやってくる日本の神々

最近「ビギナーズ・クラシックス - 古事記」なる本を読みました。

古事記(ふることふみ、とも詠まれる) - 現存する日本最古の歴史書

僕の読んだ古事記は漢字仮名交じり文バージョン(元々古事記は漢文のみで書かれている)と現代語訳バージョンが併記されているのですが、補足説明として色々なコラムがところどころに出てきます。その中で文字通り「禿同」だったのがこの一文:

そもそも「GOD」を「神」と訳したことから不幸が始まった。
(略)異文化の本質を見極めないと是正には途方もない時間を要することになる。
人間は意思の最終決定に論理よりも情緒を優先するからである。

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西洋のGOD=神=世紀の大誤訳!

......というのは僕も常々考えていた事。

まず西洋のGOD、つまりキリスト教における「神」とは一体どのような存在なのでしょう?

キリスト教をはじめとする一神教の神とはまず「全知全能」 - 絶対的な宇宙の支配者、道徳の守護者で人間が逆らう事なんて許されないばかりか、文字通り畏怖すべき存在なのです。

リスボンのジェロニモス修道院

対して日本の(特に神道における)神様というのは対してどのような存在かというと.....

......気分屋で次に何をするか分かったもんじゃないし、嫉妬もするし、間違いも犯すし、人間の体を借りて酒は吞むわ、異性とは戯れるわと実に世俗的なんですね〜

新宿・花園神社の見世物小屋

天皇崇拝が始まる以前の神道の原始の姿がより色濃く残っている(と筆者が考える)アイヌ民族の間では例えば悪天候が続いたり、生活の糧である鮭があまり川に帰ってこなかったりすると民は「神が仕事を怠けている」と考えて村の長老を中心に「神(カムイ)」に文句を言いに行ったりしていました。

キリスト教をはじめ一神教において完全無欠な「神」に対してクレームをつけるなどというのは(少なくとも信心深い人達にとっては)有り得ない行為です!



そんな「GOD」&「神」 ー この二つの言葉の語源を紐解いてみると..........

「GOD」というのは古代サクソン語の "good" を意味する単語から派生したもの、という説があります。つまりGODは「正しき者」である、という事でしょう。

そこに議論の余地はなく、ひたすら崇め、恐れ、そして全知全能のGODの目において間違いを犯さずに生きる事によって復活の日に蘇らせてもらえる、という契約の主たるGODの絶対性があり、正しい者が正しく祈れば「必ず守ってくれる」存在なのです。

プラハのモルダウ川に架かるカレル橋

対して「神」という言葉には元々「自然の力」或は「不思議な力」という意味があります。全てのものに霊性が宿ると考えるアニミズム的な日本の神様とは「生命の源」とも解釈出来るでしょう。

それは所業の善悪を裁く存在とは全く関係のない、森羅万象の不思議をなんとか象徴としてでも捉えたい、と願う古代の人々の思いが込められており、誰でもお祈りをすれば「もしかしたら守ってくれるかもしれない」という存在なのです。

そんなユルさが故か、我が家の近所にある鳩森神社で夏祭りがあると協賛した方々の名前が書かれた提灯が代々木駅前に並びますが、その中には堂々と日本共産党さんの名前も連ねられております(笑)

「宗教は民衆のアヘンである」カール・マルクス


そんなゆるキャラ的な神々だらけの国、日本にカトリックの宣教師によってキリスト教の完全なる「全知全能の神」がもたらされた際、最初はどうも「神さま」というカジュアルな言葉がしっくりこないからという事で「でうす」とか「天主」とかいった別称が使われていたのです。

例えるなら「百匹の猫(神々)」対「一匹の虎(GOD)」という位似て非なるものですから当然といえば当然でしょう。

しかし結局便宜的な理由で「神」という呼称に統一されたようです.........

十六世紀に九州を中心に耶蘇教(ヤソ教、以前キリスト教は日本ではこう呼ばれており、南方熊楠などは最後迄そう呼んでおりました)が全国的に浸透していった理由の一つに宣教師が連れてきた医者が当時は不治の病だと思われていた人達の命を西洋の進んだ医学療法で次々と救って行ったという事がありました。

西洋においてこのような自然科学が進歩した理由も実はこのGOD/神のコンセプトの違いと無関係ではないと思うのです。

日本のアニミズム的な神々とは言ってみれば自然そのもの。つまり神さまにはクレームはつけてもやはり結局「世は全てよし」。神々(=自然)とは日々仲良く共存していく道を探る訳でございます。

一方西洋において自然とはあくまでも神の創造物であり、神そのものではありません。その中で神が自分の姿に似せて作ったという我々人間は神の下において頂点にあり、自然そのものも自分達の都合で改善していく事が全然アリなのです。

「改善」って日本の国民性を象徴する言葉と云われますが、決して日本人の専売特許ではないんですね。

この自然界に対する自意識の差が程よく教会の権力が衰えたある時点(つまり暗黒時代の終わり)から人々を覚醒させ、ヨーロッパにおいて急激に自然科学が進歩した原動力となったのではないでしょうか?

******

もう10年近く前になりますが、奈良県は吉野にありまする知る人ぞ知る「霊界の銀座」天川村に行った時の事です。

丁度その時は村の夏祭りだったのですが、歴史の古い集落だけあって古代の神事の姿を非常に色濃く残したものでした。

天川村の夏祭り

日もとっぷり暮れた頃、最後に村の神社の境内で大きな焚火をする訳ですが、丁度山を背にした境内の隅っこに立って観ていた時、村のおじさんがやってきて、

「兄ちゃん、悪いけどちょっとだけそっちに行ってくれるか?」

と言ってきました。そんなに大勢人がいて混んでいる訳でもないのに変な事を言うな、と思いながら50センチ程横に動くと、

「おおきに。そのくらいで大丈夫や」

人が一人通れるかどうか、という隙間が開いただけです。もし焚火の行列が通るんだったらもっと開けなくちゃ、と思い、

「これからここを誰かが通るんですか?」

と問いかけるとそのおじさんはあたかも当たり前の如く夜の闇にシルエットだけが浮かぶ裏山を指差して、

「あの山から来る神様が通るんや」

つまり背にしていた山から「神」が僕の横を通って焚火のところまでやってくる、というのです......

神が棲む天川の山


先日、友人の結婚式で所謂神式の挙式に参加しましたが、神社(倭言葉では「かむやしろ」)の本殿、つまり御神体の鎮座する場所で誓い合う訳ですが、基本的に御神体とは神棚のほぼ目線上にあります。

縄文時代に「まれびと」と呼ばれていた神は大抵が海の向こうから一年に一回、つまりお祭りの日にやってくる、と信じられていました。

つまり日本の神々は水平にやってくるのです。


対して昔の宗教画からモンティ・パイソンのアニメに至るまで、キリスト教の神様は常に祈る者の上から垂直にやってきます


「天」から垂直に訪れる「GOD」

海や山の向こうから水平に訪れる「神々」 

「上から目線」なんて言いますが、西洋のGODは正にその権化。人間の思い上がりを戒められる唯一の角度に存在するものなのです。

対して日本の神々は人間と目線を共有し、一年に一回遊びにくる来客。ですから「お客様は神様です」というのも、逆に「神様はお客様です」というのも真実なのではないでしょうか。

神事に参加して疲労困憊する筆者(笑)


まあ無神論者の僕にとってはどちらでもいい話ですが.........