2012年9月7日金曜日

爆笑文化比較論(6)運命主義的笑いと啓蒙主義的笑い

前回までは日本とイギリスの民族流入とそれによる遺伝子の配合、更にそれがどのように民族性や言語に影響を及ぼしたかについての仮説について淡々と書かせて頂きました。

かたや日本は極東全般の宗教観と民族性のお陰か、ほぼ2,500年に渡って文化、言語、そして「笑い」は仏教や漢字の伝来の時に「変化」はしたとはいえ「破壊」はされませんでした。

対してイギリスは1,000年前にも文化、言語そして「笑い」が大幅に変わってしまう侵略に晒されております。

更に付け加えると英国人は大後悔もとい大航海時代以降、人類史上最大の帝国に肥大していく大英帝国の経営に乗り出しましたが、日本の方は鎖国をして近世に至るまで300年近くもの間、外界からの影響を完全にシャットアウトしてしまいます。

「で、一体それがお笑いと何の関係があるの?」

と思われている方々も少なくはないかと思います..........



海の向こうから来た新しい神も「8,000,001人目の神さん」としてすんなり受け入れてしまう多神教の農耕民族である日本。

「戸籍」という観念が象徴するように、倭民族は先祖信仰から生まれた土地への帰属意識が強く、悠久の長〜い時の流れの中で純粋培養され成熟した文化と言語という確固たる共通項を持つに至った人達なのです。

そんな民族同士にとって:

サービス = 極力煩わせない = 気遣い

それ即ち日本人が好んで言う「あ、うん、の呼吸」であります。言語によるコミュニケーションの限界を無意識のうちに認識し、言語レベルでの人同士の繋がりに対しては諦観すらしている、言い換えれば運命主義的なのではないでしょうか。

ダンシン・ノ〜ルナイ♪言葉にすれば〜
ダンシン・ノ〜ルナイ♪嘘に染まるぅ〜

ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ



それに対してイギリス、そして西洋は同じ神を信仰していてもその定義や教条を巡って摩擦が起きやすい土壌であり、かつ侵略にも必然的に晒されやすい一神教の狩猟民族。

これら民族は長い歴史の中で文化と言語の共通項が希薄な民族とも積極的にコミュニケーションを試みる、又は試まざるを得なかったのです。

西洋には日本のような「戸籍」という概念はなく、あくまでも「出生証明書」。いざとなればご先祖様から受け継いだ土地など捨てて、神から齎された(と時には勝手に解釈して)新しい「約束の地」に乗り換えてしまう事も厭いません。

この民族にとって:

サービス = 相手の嗜好を尊重する = 選択の自由

それ即ち相手の望みをこちらが以心伝心で汲み取るより、齟齬無き明確な言語によるコミュニケーションを重視。言語レベルでの人同士の繋がりに取って代わるものなし、と信じる、つまり啓蒙主義的なのではないか、と。

Only people know just how to talk to people
人間に語りかける事が出来るのはやはり同じ人間だけさ

Only People / John Lennon

和風のサービスは「気遣い」、洋風のサービスは「選択の自由」

これを証明する判りやすい例をご紹介しましょう。

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例えば貴方がどこかの会社にミーティングで出かけていったとしましょう:

自分:「○○社の△△と申しますが、XXXさんと3時に約束があるのですが」
受付:「判りました。XXXは只今電話中なのでこちらの会議室でお待ち下さい」

といってミーティング・ルームに通されて:

受付「こちらでしばらくお待ち下さい。すぐに参りますので」

ここまでの流れは東京であってもロンドンであってもほぼ同じです........



しかし!そこが東京であったら受付の方は直ぐに夏なら冷たいお茶かアイス・コーヒー、冬なら暖かいお茶かホット・コーヒーをもってきてくれるでしょう。

もし!そこがロンドンだったら

'Would you like something to drink - tea, coffee or mineral water?'

と訊かれます。

"Coffee would be lovely, thank you."

と答えると;

"Black or white?"
"With or without sugar?"
"How much sugar would you like?"

と矢継ぎ早に好みを訊かれるのです。

日本ならコーヒー・フレッシュと砂糖又はシロップを黙っていても一緒に持ってきてくれます。

ただし、日本ではもし貴方がコーヒー・アレルギーだったり或は嫌いだったとしてもこのような場合は大抵何も言わずに黙っているしかないですよね..........

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言語への依存度の差、そして「サービス」の解釈が「気遣い」なのか「選択の自由」なのかというのは「笑い」のツボにも当然影響してくると思います。


運命主義的な前者の笑いのツボというのは非常に感覚的、そして肉体的なスラップスティック系、或はこのような言い方が許されるのなら言語においてさえスラップスティック系の直接的なものとなる。そして啓蒙主義的な後者の笑いのツボというのはより理性に訴えかける批評性の強いものになる傾向がある......

......というのが僕の推論です。

1 件のコメント:

  1. うーん。私は日本でも普通にコービーか紅茶かは聞かれて
    たのでこの例はちょっと疑問。地域によって違うのかな。

    選べないときだったとしてもアレルギーなどがあるのなら言って欲しいですね。次にまたミーティングとかあるときに困るだろうし、べつにそれで気を悪くすることもないと思う。何も言わずに黙っているしかないっておもうのはわからない。

    笑いの傾向とかの違いはなるほどなぁとおもいました。

    通りすがりコメ失礼しましたー。

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